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サイゴンの部屋貸します

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 見わたす限りの水田である。私はニ十年来アジアを旅してきて、これほど果てしなく広がる稲の波を見たことは数えるほどしかない。江田夫人のクインフォアさんが子供のころ暮らした村へと至る田舎道の周りには、そんな風景が延々と続いていた。

 ベトナムの豊かさを知りたければメコン・デルタへ行け、とよく言われる。たしかに、黄土色の水を満々とたたえ、途方もなく大きな怪魚が川底でまどろんでいそうなメコンと、その流域に開けた水田の規模は圧倒的だが、中部の古都フエから郊外に出たこのー帯でも、私は世界第三位の米の輸出量を誇るベトナムの底力を改めて見せつけられる思いがした。

 それにしても、なんたる悪路か。雨期にスコールで何度もえぐちれたらしい泥道が、乾期のいまはかちかちに干からび、自動車の通った形跡すらない。三時間以上走ったところで、ハイヤーの運ちゃんが音を上げた。クインフォアさんの話では、フエから船で川を下っても片道五時間、そこからさらに徒歩でー時間はかかるという。目的地の村には幼なじみがいるだけで、親戚はもういない。私たちはあきらめて引き返すことにしたが、江田さんは感に堪えないように、
「かみさんが、こんな”どいなか”から出てきたことがわかっただけでも、よかったですよ」
と言った。豊潤な田園地帯を見ていると、人ロの八割が住む農村部の四人にー人以上が失業中とは信じがたい気がしてくる。だが、ベトナム戦争終結の前年に生まれたクインフォアきんの少女時代、農村の暮らしはいまよりもさらに厳しかった。

 戦火と熱帯気候のせいで痛みの激しいフエ王宮の城址を散策している時、クインフォアさんは道端に生えている雑草に目を落としながら、時折少女時代の忘れ物でも見つけたかのように駆け寄っていた。
「この草の茎、ちょっと噛んでみて。ねっ、すっぱいでしょ。むかしスープに使ったのよ」
「こっちの草は、籾穀に混ぜて豚の餌にするんだけど、ごはんもおかずもないときは、これをお粥に入れて量を増やしたのよ」
「むかしはゴムぞうりも買えなかったから、裸足で働いてよくケガをしたわねえ…。」

 歌うように回想する彼女の声を聞いているとき、私はこの世のものとも思えぬ、美しい蝶が舞っているのに気づいた。黒アゲハのー種なのだろう。羽の中央に螺鈿のごとく輝くコバルト・グリーンの紋様が入っている。しきりに感嘆していたら、江田さんが、
「ベトナムでよく見かけるチョウチョですよ」
と言ったので、私はいささか鼻白んだ。

 数日後、サイゴンに戻った私たちはそろって、敬度な仏教徒のクインフオアさんが毎月、旧暦のー日と十五日に必ずお参りに行くという寺に参詣した。スピーカーから流れ出る野太い読経の声と、もうもうたる線香の煙が、江田夫妻や、あとからあとから参拝に訪れるベトナム人たちを包み込む。江田夫妻は2000ドン(約20円)で中華料理屋の箸ほどもある線香をひとふくろ買い求め、やけに金ぴかな弥勤菩薩や、キューピー人形が腰布を巻いたような生誕直後の釈迦像の前で、ベトナム式のお祈りを繰り返した。合掌した手にたばさむように線香を三、四十本も立て、それを額の上に掲げて、瞑目し、おごそかに祈る。

 クインフォアさんは、いつもと同じお祈りを唱えた。家族みなが幸せでありますように、一人息子のヤマトが元気で大きくなりますように、あたしたち夫婦が百歳まで仲良く暮らせますように…。江田さんも祈った。かみさんは小さい頃から苦労ばかりしてきましたので、これからはずっとずっと幸せでいられますように、と。線香の煙にむせながら、小柄なべトナム人たちに混じって、一心に手を合わせる江田さんの大きな後ろ姿を見ているうちに、私は滅多にないことだが、神仏の加護がこのニ人にだけはあってほしいと、心底から祈るような気持ちになっていた。

 寺を出て、江田さんはちょっと照れたように言った。
「僕はベトナムにたったー人でやって来て、まだこれといった成果は出ていないけれど、うちの奥さんの笑顔がー日にー回は見られるようになったことが、こっちに来てー番よかったことかなあ…。」

 私が日本に帰る前夜のこと、江田さんから小さな紙包みを手渡された。開けてみて、思わず江田さんの顔を見直した。古都フエの城祉で私が見つけて、その美しさに歓声をあげた蝶が、小さな額に収められているではないか。コバルト・グリーンの紋様は、羽の先へいくにつれ、闇夜に光る蛍のように、はかなくも美しい。

 「柄にもなく」と言いかけて、やめた。冗談にまぎらしてはいけないと思ったのである。この心があるから、ベトナム人たちは彼を受け入れたのだと、そのとき私は初めて深く得心した。

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